撮影技術と審美眼
絵には描かれた時間に相当する一貫した意思が現れる。写真は一瞬にして情景を切り取る。撮られた生の写真群のすべてに、絵のような一貫した意思を込めることは難しい。
絵を描くには時間がかかる。画家は長い制作過程の中、一筆ごとに創作意図を反映させていく。写真の場合、瞬間の勝負である。多くの場合、一瞬の偶然を切り取る。その偶然の中に、神に選ばれた、、、とまでは言わないが、良質のショットが入り込む。
写真の神による偶然は、どの撮り手にも均等にやってくるわけではない。プロの写真家は経験と努力から機会を増やし確率を上げ、瞬間を逃さない技術がある。素人は少しでもテクニックに上げ、少しずつ条件を変えて数を撮るしかない。確率は低くとも、良いショットは紛れ込んでくる。
撮った後は、もう一つの才能の出番になる。たくさん撮ったショットのうち、どれが美しく価値あるものかを見分ける力、審美眼の出番だ。だから、写真家の一貫した意思は、情景を切り取る撮影のときだけでなく、撮った写真群から選び出すことと、それに適切なタイトルを付けることで表現される。
見分けて選び出すための感覚と能力は、批評家的な、編集者的な能力につながる。絵は描けないし、きれいなデザインもできない私だが、写真趣味を続けていけるかも知れないと思うのは、そのあたりにある。
浜辺の茶屋、Canon F-1、New FD 20-35mm/F3.5L、エクタクローム64プロフェッショナル、2008/11/28
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