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2005/09/21

沖縄島唄:大城美佐子

 沖縄旅行の最終日、国際通りの居酒屋「じんじん」に入ったのは、5時半過ぎだった。
 まだ他の客は誰もおらず、カウンターの端に妻と座った。15分ほどして、年配の女性が一人で入ってきて、私たちの近くに座った。
 普通の主婦とかではない。バーの上品なマダムというような感じで、懇意な感じで店主と話している。
 その店主が取り持つような感じで、少しだけ話をすることになる。「僕も三線を弾くけど、この方は僕からは神様のような方だ」と言う。

 昔の沖縄の話、今回の沖縄旅行の話、その他、たわいのない話をする。その女性は、私たち二人が注文している沖縄料理に物足りなさを感じたのか、一品のメニューをご馳走してくれた。
 沖縄の田芋のマッシュポテトのような「ドゥルワカシー」という一品だった。非常に香りと味の強い独特な料理だった。
 8時の飛行機に乗る私たちは、写真を一緒に撮り、お礼を言い、7時過ぎに退散した。

 もらった名刺には、「大城美佐子」とある。帰ってから調べると、なんと、嘉手苅林昌、知名定繁(ネーネーズ知名定男の父)の直弟子ではないか。「沖縄民謡の中心的人物の一人」、「絹の声の持ち主」、Webの検索結果には賛辞の嵐があった。
 Amazonで購入したアルバム「沖縄島唄」を聞いてみた。非常に澄んだ、それでいて反響する声で印象的だった。まず、のっけから嘉手苅林昌との共演だし、知名親子ともずっと共演しているのもすごい。

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 物心ついたときから、"沖縄音楽"が好きだった。沖縄音楽とゴスペル(黒人教会の合唱)の二つだけは、誰から教わったわけでもなくとにかく好きだった。私自身が元から持つ波長に合ったのだろう。
 中学校時代の銀河テレビ小説(たしか大空真弓が出ていた)の主題歌の沖縄民謡には震えたし、高校時代の「喜納昌吉&チャンプルーズ」の「ハイサイおじさん」にはノックアウトされた。
 大学に入ってロックを聴くようになり、ニューウェーブの流れでアフリカ音楽を聴くようになったとき、沖縄音楽のレコードを探したが見つからなかった。
 当時、民俗音楽が充実したWAVEやタワーなどのレコード屋もまだなかったし、沖縄街のようなところがあることも知らなかった。通常ルートではまったく入手困難だった。だいたい、喜納昌吉、喜納昌永以外の演奏家の名前は一人も知らなかった。

 1983年、大学四年、留年の年、友人3人と沖縄旅行に行った。1週間ほど座間味島でキャンプをし、残りは那覇市内の特浴街の安いホテルで過ごした。
 毎日安いステーキを食べて、皆で街をプラプラしていたが、私には目的があった。国際通りのレコード屋に行き、沖縄民謡のレコードを買って帰ることだ。
 そこには本土では手に入らないレコードが山ほどあった。でも、なにを買っていいのか分からない。結局、店員の薦めに従って、LP10枚、シングル2枚ぐらいを買って帰った。
 もっとお金があれば、さらに買ったのだが、持ち金は尽きかけていた。キャッシュカードはあったが、なんと本土系の銀行の支店は一つもなく、お金が下ろせるATMが一つもない。じゃんけんで負けた友人が代表して、サラ金にお金を借りに行ったが、「沖縄の方にしか貸せません」と断られた。まだそういう時代だった。

 そのレコードは、戻ってからそこそこ聴いた気がする。でも、熱狂的に何十回も繰り返して聴くまではいかなかったかな。
 大学を出て就職し、さらにロック志向が強まった。それと共に、徐々に沖縄のLP、CDも本土で手に入るようになった。その頃にはなぜか、沖縄音楽、沖縄民謡志向が弱まっていた。ときどき、チャンプルーズやネーネーズのコンサートに行ったり、嘉手苅林昌のCDを買ったりはしたが、この10年はさらに疎遠になってしまった。

 久しぶりにしっかり聴く沖縄民謡、それもスローテンポのやさしい唄は、心に染みる。同時に、小さいときから二十歳ごろまであこがれた沖縄音楽への想いが思い出されてきた。
 あのころから、いろいろなものをなくし、忘れ、捨て、代わりにいくつかのものを手に入れてきた。でも、なくし、忘れ、捨てたものでも、また戻ってくることもあるのだ。
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